<メキシコの壁画運動>最終回 壁画の三巨匠B
ダビ・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros)


1896年12月29日チワワ州シウダ・カマルゴ生まれ。11歳のときにその画才を見出され、メキシコシティにあるサン・カルロス美術学校へ入学。学校ではヨーロッパ絵画を模倣するだけの古い授業方法に反対し、彼の最初の政治活動となる学生ストに参加します。彼はすでに強い社会主義思想を持っていたために父親と対立し、16歳のとき、家を出ます。時代はメキシコ革命の真っ只中で、全国各地で激しい戦闘が繰り広げられていました。シケイロスは、のちに大統領となるカランサ率いる護憲軍に加わり、4年後にはその活躍が認められて中尉の位にまで上り詰めました。

1919年、外務省の軍事担当官としてヨーロッパを回り、留学中のメキシコ人画家リベラとパリで出会います。ヨーロッパ芸術に直に触れていくうちに、メキシコ人としての強い民族意識に目覚めたシケイロスは、その3年後、当時の文部大臣バスコンセロスの要請により帰国し、壁画運動に参加します。1921年に彼自身が発行した雑誌の中で、民衆のための芸術の重要性と先住民文化の価値を訴えていたのです。彼の壁画は、遠近法を巧みに使った大胆な構図と鮮烈な色使いが特徴で、立場の弱い社会層を激励するメッセージが盛り込まれています。

1923年、メキシコ共産党に入党。また、同じく壁画運動に参加していたオロスコやリベラとともに技術・芸術家革命組合を設立。しかしその頃、独裁者としての性格を強めていた大統領カリェスの共産主義者へ対する厳しい弾圧にあい、シケイロスは壁画運動からはずされてしまいます。そのため彼は、鉱山労働者の組織化やストライキの指導など、政治や組合に関する活動に没頭しました。

1930年、シケイロスはその激しい政治的発言と行動のため、共産党を除名されます。そして逮捕、拘置された後、ゲレロ州タスコでほぼ軟禁状態となりながら絵画制作を始めます。1932年には初の個展を開きますが、その後国外追放となり、アメリカへと渡ります。アメリカでは壁画の制作や、吹き付け染料などの新しい画材の研究に取り組みました。
1937年、41歳のとき、スペイン内戦に国際義勇軍として参加。人民戦線側で実践部隊を指揮します。内戦が終り帰国した1940年の5月24日、レオン・トロツキーの襲撃に加わります。逮捕されましたが、詩人パブロ・ネルーダの援助によりチリに逃れ、その後、中南米諸国を回り、政治・芸術活動に携わりました。

1944年にメキシコに戻った後は、ベジャス・アルテス宮殿のLa Nueva Democracia(写真13P.下)やCuauhtémoc Revivido(写真14P.上)、国立歴史博物館のLa Revolución contra la Dictadura Porfiriana(写真14P.中)などの壁画制作や、化学染料の開発に力を注ぎました。

1960年、革命が終わったあとのキューバを訪問。帰国後、学生左翼グループの暴動を計画したかどで逮捕され、8年の実刑判決を受けます。64歳でした。しかしその4年後、世界中の芸術家たちが抗議活動を起こしたことを受け、彼は恩赦となり出獄しました。

その後、インスルヘンテス通り沿いに彼の個人美術館「シケイロス文化ポリフォルム(写真14P.下)」の建設を開始。シケイロスと交流があり、建設中のポリフォルムに案内された岡本太郎は、こう語っています。「圧倒される。こうなると、もう、いい悪いを超えてる。シケイロスの作品に賛成であろうがなかろうが、とにかくそこに一つの宇宙があり、それがシケイロスなのだ(美術雑誌「みずえ」1972年8月号Vol.811より)」。
国内外で数々の芸術賞を受け、1974年、74歳で死去しました。

シケイロスは偉大な芸術家であったとともに、情熱的な革命家でもありました。マルクス・スターリン思想に基づく過激な発言や行動により、彼は幾度となく投獄されたり国外追放になったりしました。その合間を縫うように精力的に壁画や絵画の制作を行いますが、彼の作品の中には、20世紀のメキシコ社会や文化を揺るがした彼自身の革命精神がぎっしりと詰まっています。彼は常に「メキシコ革命は続行中」と考え、社会主義の理想を求めて生涯を戦い続けたのでした。

(Y.T)

 


| 日墨倶楽部へ | 今月のトップへ | このセクションンのトップへ |